原発事故についての中立的な解説記事(翻訳)
現在福島第一原子力発電所で起きている事故について Both Better and Worse than Chernobyl という解説記事を読んだのですが、中立性を保ちつつもかなり的確な指摘を行っていて、特に社会的な影響やリスク管理の観点を含んでいるという点で参考になると思ったので、著者である Sonja Schmid 博士の快諾を得て翻訳しました。I really appreciate the generous and quick response of Dr Sonja Schmid and [twitter:@LondonReview].
誤訳などあるかもしれませんが、気づいた場合はお知らせください。また細かい表現などは適宜修正していく可能性があります。なお事故状況は常に変化しますので、最新の情報についてはニュースなどをチェックされるようお願いします。技術的な詳細についてはMIT原子力理工学部による改訂版・福島第一原発事故解説やhttp://ribf.riken.jp/~koji/jishin/zhen_zai.htmlなどが参考になるかと思います。
以下、本文となります。体裁については後でもう少し整理します。
チェルノブイリより良くもあり、悪くもある
Sonja Schmid 2011年3月17日*1
福島第一原子力発電所で進行中の事態については、様々な最悪のシナリオを予測できたかもしれないが、すでにそのどれよりも悪いものとなっている。原子炉が三基破損したと考えられているが、どの程度ひどい状態なのかについては誰も分からない。津波によってほとんどの計器が故障してしまい、オペレータはなにより水位について読み取ることができなくなってしまったからである。また水素爆発によって屋根が吹き飛ばされてしまったため、第二格納容器*2内の使用済み燃料プールについても不安が高まっている。先日炉心から取り出されたばかりの使用済み燃料は高温で、非常に放射能が高い。もし冷却が不十分なせいで燃料が分解する(もしくは「溶ける」)ようなことになれば、炉心あるいは使用済み燃料プールにおいて臨界に達する可能性がある。すなわち持続的かつ連鎖的な核反応が始まってしまい、炎によって放射線が広範囲にまき散らされてしまうかもしれない。影響範囲は風や天候によって左右され、場合によっては日本国外に及ぶかもしれない。
もしなんとかして発電所を外部電源に再接続することができれば、オペレータは冷却問題に取り組むことができるに違いない。ただし予備の装置がまだ十分に機能すると仮定しての話である。その場合でも何ヶ月か、ひょっとすると何年にも渡って放射線を取り除く作業が続くことになる。おそらくこれが現時点における最良のシナリオである。
今回の災害との比較対象となる事故は、多くの人々にとっては1979年のスリーマイル島および1986年のチェルノブイリのケースのみである。これらの事故は世論がおぼろげにでも覚えていればいい方で、最悪の場合には都合良く歪曲されてしまってさえいる。1989年、国際原子力機関と経済協力開発機構原子力機関の専門家によって国際原子力事象評価尺度が作られた。これは七つの段階からなる基準であり、スリーマイル島はレベル5(「広域に影響が及ぶ事故」*3)、チェルノブイリはレベル7(「深刻な事故」)である。新聞記者や専門家は誰もがこの尺度で福島の事故の大きさを測ることにこだわっている(レベルは繰り返し修正されている)。状況は急速に展開しているにもかかわらず、あたかもこれらの数字がなんらかの意味を持っていると言わんばかりに。
福島第一の状況はスリーマイル島の事故を比較的無害なもののように思わせ始めている。しかしチェルノブイリとは全く状況が異なっている。福島の原子炉は炉心が溶け始める前に正常に停止しており、また原子炉の設計も完全に異なっているからである。しかも現時点までに放出された放射線の量ははるかに少ない。つまり技術的な観点からすれば、およそ福島がチェルノブイリ並に深刻であるとはとても言えない。
しかし純粋に組織論的な観点から比較すると、すでに状況はとても悪いものである。チェルノブイリでは原子炉一基に対処すればよかったのに対して、福島では現時点で三基である。また徴集による巨大な軍隊と、何十万もの人々を「解体作業者」として採用した(「ボランティア活動に当たらせた」)政府の助けによって災害の事後処理を続けることができたのに対して、百人の作業員をかき集めることにさえ苦労している会社が一つあるだけである。そして最後に、被害が及んだ地域からは避難が行われ、チェルノブイリの周囲三十キロメートルは立ち入り禁止区域に指定された。これに巻き込まれた人々はおそらく痛手を負ったであろうし、ウクライナの農業は打撃を受けたであろう。しかしソビエト連邦の広大さを考慮すれば、少なくとも原則としては妥当な処置であったと言える。一方日本は人口の密集した狭い国である。いったい人々はどこへ行けばいいというのであろうか?耕作可能な土地が失われたとき、その代わりをどうやって見つけるというのであろうか?
福島からどのような教訓が得られるかについて述べるには余りにも時期尚早である。原子力の今後にとってこの災害がどのような意味を持つのかについてさえである。程なく責任の押し付け合いが始まることはほぼ確実であり、原子力に賛成する側も反対する側もおそらくそれぞれの論拠をまとめつつあるに違いない。重要であろうことは、高度に発達した現代技術はそれがいかなるものであっても不確実性を内在させていると念頭に置くことである。たとえどのような危険性を予測し、そのための安全策を導入したとしてもである。気候変動、世界人口の増大、そしてエネルギー需要の増加を前にしては、最大限の努力によって災害を回避しようとするだけでは十分ではないかもしれない。我々はそれらの問題に取り組むことについても覚悟しなければならないのである。