悪童日記三部作

アゴタ・クリストフによる悪童日記三部作(堀茂樹訳)を読んだので、簡単にレビュー。

悪童日記

第一作。ドライな日記風に語られる「ぼくら」のしたたかさが、突き放しているようでもあり共感を呼ぶようでもあり、新しい小説を生んでいると思う。ただ全体に面白かったものの、技巧の少なさはどうしても物足りず、「髪に受けた愛撫だけは、捨てることができない。」(p.50)のような表現をもっと開発して欲しかった(これは文脈があって初めて成立する類の表現で、ここだけ取り出してもそれほど面白くはない)。

なお原題はLe Grand Cahierで、直訳すると「(その)大きなノート」となるが、『悪童日記』という邦題はなかなか利いていて良いと思う(なぜ「悪童日記」という邦題にしたか?)。

『ふたりの証拠』

第二作。続編ではあるが、創造的組み替えのようなものが行われており、内容においても文体においても前作との味わい分けが必要かと思う。単純に言ってしまえば少し文学寄りの、とはいえ文学ど真ん中(そんなものがあるとして)からは外れるヘッセ的なテイストという印象があり(内容面ではある種の遍歴性など、形式面ではやはり技巧の少なさなどにおいて)、そしてヘッセほどの味わいはないかなと思う。マティアスの処遇やラストなど、失敗パターンをいくつか踏んでしまってもいる。そこそこ面白くはあるので、読んでおいてもいいかなといったところ。

『第三の嘘』

最終作。再び創造的組み替えが行われており、前作よりもさらに文学に近付こうとしている印象を受ける。とりわけ人間観察の巧みさによって作品を成立させる系列に連なろうとしているように見えるが、そこには半世紀や百年以上も読み継がれている作品がごろごろと転がっており、それらと比べたときにこれはと思わせる新しい何かがあるかというと、第一作に由来する以外のものを見出すことはなかなか難しいのではないだろうか。三部作を完結させるという意味においては読んでおいた方がいいかなといったところ。

総評

『第三の嘘』の解説によれば、作者は第一作を書いたとき、続編を予定してはいなかったものの余地は残しておいたとのことで、それは『悪童日記』のラストにいくらかのエクスキューズを与えはするが、三部作全て、特にそれぞれのラストを読んだ後では、作者には結末を描ききる力が不足しているのではないかという印象は拭い去れない。

小説が成功する鉄板パターンの一つとして、「良いテーマを設定する、そしてそれを描くための良い文体を開発する」というものがあって、『ふたりの証拠』、『第三の嘘』はそのパターンから(あるいは他のパターンからも)外れて半ば類型化に陥っているように思うのだが、『悪童日記』はある種のビギナーズラックによってまさにそのパターンを高い精度で実行できたからこそ成功したのだと思う。

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)