高野公彦『汽水の光』

高野公彦『汽水の光』(『高野公彦歌集』現代短歌文庫3、砂子屋書房、1987)を読んだ。第一歌集にして既にこの完成度、というような褒め方がされるのをしばしば見かけるような気がするが、通して読んでみると第一歌集らしい未完成さはそれなりにあるように思った。しかしやはり未完成さの現れ方には独特な部分があって、それは結局のところ大岡信による解説が指摘していることと重なる思う。(なおこの歌集が最初に出版されたのは1976年である。)

技法として、たとえば助詞の「に」を省略するといった、文法的に考えると少なくとも散文としては無理があり、韻文でもぎりぎり許容されるかされないかといった表現を少なからず用いて言葉に負荷を与えている点が一つの特徴かと思った。しかし自分は文法的な無理はやはり気になってしまって、あまりいい技法とは思えなかった。

そのような中で、有名な

白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり

は、ほぼ適格でありながらもなお文法的に言葉に負荷が与えられており、それがこの歌の成功に寄与しているように思った。下の句はいわゆる「象は鼻が長い」構文による「自転車はハンドルが濡れている」をベースにしているが、そこには「象」と「鼻」、「自転車」と「ハンドル」の関係が明白であることによる認識の容易さがある。ところが、この歌においては「ハンドル」は「ほそきつばさ」という見立てに助走なしに置き換えられており、これによって認知的な負荷が高められ、そしてそれがある種の快感に繋がっていく。「ほぼ」適格と書いたのは、「つばさが」のように格助詞を入れることをしていないからで、これが完全に適格であるかどうかはやや判断しかねるところがある。

他に良いと思った歌としては、次のようなものを挙げておく。

わが生と幾つかの死のあはひにて日あたる塀は長くつづけり
粘りある炎とおもふ鶏居らぬ小屋をほどきて日暮れに燃せば
ことば、野にほろびてしづかなる秋を藁うつくしく陽に乾きたり
わが顔に冬日の差すは恩寵に似てつまらなくバスを待ちをり