加藤治郎『うたびとの日々』
加藤治郎『うたびとの日々』(書肆侃侃房、2012)を読んだ。様々な場所で発表された文章が二部構成の形でまとめられている。
前半は「短歌の現代性【リアル】」と題されており、およそゼロ年代の短歌界を振り返るような内容になっているのだが、奇妙なことにとても懐かしい気分を覚えた。奇妙なことに、というのは、評者が短歌を始めたのは2007年12月であり、2000年に出た「うたう」(短歌研究臨時増刊号)から説き起こされるエピソード群の多くをリアルタイムで知っているわけでは全くないからだ。それでもなお懐かしさを覚えるのは、「うたう」によって見いだされた歌人達も少なからず活躍する『短歌ヴァーサス』を、歌を始めて(確か)ひと月も経たないうちから買い求めて当時の自分なりにかなり熱心に読み込んだからで、言わばゼロ年代短歌のある側面を早回しに追体験したようなところがあるからだ。(ちなみに最初に手に入れた『短歌ヴァーサス』はそのとき出たばかりだった11号 、すなわち終刊号であった。)
後半のタイトルは「歌人【うたびと】として生きる」であり、私的なエッセイが並ぶ。今まで加藤のこの種の文章を読む機会はそれほど多くなかったのだが、エピソードを語るその名手ぶりに驚いた。たとえば
よくかるたで遊んだのは高校生の頃である。二十五年前だ。家では、正月定番の行事だった。(…)中学生の妹が一番になることはなかったが、妹には譲れない札があった。自分がミカだから「みかの原」は私のものという他愛ない話だが、皆なんとなくその札はとらないようにしたものだ。
というような部分で、こういう語り口の何気なさはやはり上手いと思う。そしてまた加藤が鳴海の生まれであるということに驚いた。評者の父方の本家筋も鳴海なのである。幼い頃に何度か名古屋に行ったことはあるのだが(定かではないがおそらく鳴海にも)、その記憶はほとんどなく、しかしながらそういう土地で積み重ねた生活についての加藤のエピソードを読むと、これもまた一種の奇妙なとでも言うべき懐かしさをやはり覚えるのである。