『天空の城ラピュタ』の分析
(2009年に書いて未完のままだった文章を、せっかくなのでそのままアップしたものです。)
1 はじめに
アニメを見たことがない人は少ないと思うが、分析的に見たことがある人もまた少ないのではないだろうか。そこで一例として『天空の城ラピュタ』について簡単に分析したいと思う。
2 構造
まず全体的な構造を概観しておく。
物語は表面的にはラピュタについての話として流れるが、内面的にはパズーとシータの仲についての話として流れる。この二つの流れはほとんど交わらずに平行して進むが、内面的な流れの方がより構成が練られており、従ってより重要であると考えられる。
ここで幕と場という用語を導入すれば、流れは導入部、一幕、二幕、三幕、四幕、終結部に分けられ、また二幕と四幕はそれぞれ四場に分けられる。各幕は起承転結のそれぞれに相当し、物語内の時間として一日が割り当てられている。導入部は一幕と、終結部は四幕と日を同じくしている。二幕の各場はやはり起承転結に相当し、四幕についてもその通りである。三幕は細かく見ればいくつかの場を想定できるが、ここでは大きく前半、後半というとらえ方をする。
3 導入部
物語はドーラ一家がシータを乗せた大型旅客機に夜襲をかける場面から始まる。抑えられたトーン、無駄のない動き、緩急の対比、挟み込まれたオープニング、これら全てが飛行石の力を印象づけるために捧げられており、極めて統一感のある導入部となっている。
4 一幕
続いてパズーがシータと出会うシークエンスに移る。これが起である。空から女の子が降ってくるという設定は、些か突飛ではあるがボーイ・ミーツ・ガールの非典型化に役立っている。降ってくる場所がピンポイント過ぎたり、シータを落としそうになっても落とさなかったりするのは、ご都合主義ではなく一つの手法として理解すべきである。
なお時系列で考えるとこれ以前にムスカがシータをさらっているのだが、それを起とは考えにくい。なぜなら映画構成上二日目に回想として語られる事件を起とするのは無理があり、何よりも主人公はパズーだからである。
5 二幕
5.1 二幕一場
早朝、先に起きたパズーが屋根に上ってトランペットを吹く。物語としての必然性は乏しいが、メタ物語的にこれから始まる冒険を印象づけている。また鳩と合わせてシータの警戒を解くのにも役立っている。
続いてラピュタの話題。パズーの呼びかけに答えないシータを描くことで、何かが隠されていることを暗示する。飛行石の力を試そうとした後にラピュタの話が来る構成は意図的である。また空に浮かぶ伝説の島を見た父親にあこがれる息子、という枠組みを設定することで物語に推進力を与えている。
ドーラがシータを探してオートモービルでパズーの家にやってくる部分が起となる。ここから始まる一連のドタバタ劇の上手さはまさにお家芸。劇の最後に軍隊というもう一つの勢力を割り込ませることで、再び飛行石の力を印象づけつつ場面転換を行う。
5.2 二幕二場
起ではパズーとシータがともに行動する要因が外部にあったが、それが内部に移るのが承である。簡単に言えば二人の心の距離が縮まる場面である。従って物語は基本的に二人の語りで進行し、暗くて狭く人のいない古い坑道はその舞台として相応しい。
この場面にあってポムじいさんはいかなる意味でも敵ではない人物、さらに言えば人であるかどうかも怪しい人物として描かれる(老機関士と比べてみるとよい)。これは二人の仲を邪魔しないためには必須であり、また彼のラピュタに関する知識に信憑性を与えてもいる。
坑道を出た後、大きな雲(おそらく龍の巣)を見て希望に燃えるパズー、本当の名前を告白するシータ、そこへ再び軍隊が割り込む。まさに物語が進むべき場所で邪魔が入っており、しかも大人が子供を殴り、政府軍が民間人を連れ去るという、明確な転となっている。
5.3 二幕三場
カメラが牢に入れられたパズーから引いて行き、ムスカが将軍をやり込めるシーンを映すが、これは主人公の一時的な交代を意味している。シータは常にパズーかムスカのどちらか一方と共に行動するという原則を考えると、行動する相手が変わったという意味でもこの場面は転である。
しかし心の中でシータは常にパズーのことを考え、パズーもまた常にシータの事を考えている。つまりここは恋愛における試練の場面と言える。ドーラがパズーにシータの心情を説明するくだりなど、恋愛を描いたにしては分かりやすい場面だが、これは視聴者に子供も想定しているためだと思われる。
5.4 二幕四場
パズーがシータを助けることを決意する部分から結に入る。それに応えるかのようにシータは呪文を口にし、ロボットの封印が解ける。
ロボットはまずその恐ろしさが描写され、次に実はシータの味方であることが分かり、最後はゴリアテの砲弾によって倒れる。その上登場したときから片手片足が若干壊れているあたり涙を誘う手法があからさまで、二重の意味で「かわいそうなロボット」である。
シータの救出劇は完成度という意味では導入部に劣ると思うが、しかしなかなかに「熱い」場面であって、物語前半のクライマックスに相応しい。名場面が連続するが、個人的にはフラップターに乗ったパズーの背後から塔にいるシータを撮ったショットが気に入っている。
6 三幕
6.1 三幕前半
これまでの分析から明らかなように、一二幕はパズーとシータが結ばれるまでの物語でもある。祝祭的雰囲気のあるカラフルな煙幕から考えてもこれはほとんど結婚であり、また以下で見るように三幕前半は家庭生活そのものである。
まずドーラに船に乗せてくれるよう頼むシーンは実質的に結婚式である。人生の先輩に若者二人が許可を願い出、それが認められると周囲の人々が祝福する。しかも仲間が増えたことを祝うのではなく、自分たちが家事から解放されるという、かなり好意的に解釈すればシータの家事能力を称える祝い方である。
しばし谷との別れを惜しんだ後、タイガーモス号に乗り込む場面から三幕二場になる。この場面はゴリアテの追跡開始であるが、家庭生活の始まりでもあって、パズーには老技師の助手、シータには食事係という社会的身分が割り当てられる。
そして一日だけではあるが二人のタイガーモス号での生活が描写される。これは近代的な社会と家庭の縮図である。即ち昼間夫は外へ働きに行き、妻は家で家事をこなす。夜になれば当然のごとく二人で愛を育む。見張り台はベッドのあからさまな比喩である。二幕までとは違ってシータが体のラインが強調される服に着替えていることにも注目すべきである。
6.2 三幕後半
ゴリアテの発見から後半に入る。観客の注意を引きつけるため、外からの割り込みによって場面を変えるという手法が頻繁に使用されるが、ここも例外ではなく、むしろ割り込まれない方がおかしいとさえ言える場面である。
凧を切り離す場面は束の間の休息だが、問題の大きいシーンである。シータが「あら、おばさまも女よ」と発言するが、これは女のステレオタイプに当てはめるなという意味である。ところが操縦桿を握るのはパズーであって、シータはパズーに素直に従うだけである。演出としては、ドーラの声が「どうしたんだ?」以後聞こえなくなるが、これはシータがパズーのことしか目に入っていないということである。またシータがパズーに背中からしがみついて顔を見上げるという構図およびそれを映すカメラワークも従順さの演出である。
東ではなく北へ進んでいると気付いたことで休息が破られる。時化てきたのも風に流されたのももちろん龍の巣のせいである。龍の巣と格闘しているところへゴリアテが現れたのがプッシュ要因となり、パズーの父が龍の巣の中でラピュタを見て戻ってきたという話がプル要因となって、一行は龍の巣へ突入することになる。ここでさらに凧のワイヤーを切ってしまうあたりに作り手のテクニックが見え隠れしている。
龍の形をした雷が荒れ狂う雲の中、動力のない凧を乗りこなし、父親の幻を見る。これは一種の通過儀礼であり、それによってパズーは「急に男にな」るのである。
7 四幕
7.1 四幕一場
雲を抜けたところから四幕一場となる。ラピュタの「良い」面を見せる起であり、雲が晴れてラピュタの外観が徐々に明らかにされていく描写がそれを予感させる。
カメラのピント合わせでパズーの意識が描写される。紐をほどくのを待てないのは、ラピュタ発見を確信するのを待ちきれないということである。落ちそうで落ちない、もしくは本当に落ちてしまうという描写は、この映画において高さの演出としてよく用いられている。
ロボットの描写はここにおいても手法があからさまである。最初は一瞬悪者かと思わせるが、すぐにそうでないことが分かり、ドームに向かって歩き出す。パズーとシータがロボットを追いかけながら、ラピュタの繁栄に思いを馳せる。そのうちロボットを見失い、代わりに墓を発見する。そこへ墓に供えるための花を持ってロボットが再び現れる。さらに動物達がいるのでロボットは寂しくないとパズーとシータと視聴者は「納得する」。
7.2 四幕二場
爆破の描写から二場に入る。ラピュタの「悪い」面を見せる承である。
ここで活躍するのは政府軍に属する人間達で、一場でロボット(人が自分に似せて創ったもの)が重要な役割を担っていたのとは対照的である。彼らは街を破壊して財宝を盗み出そうとし、「善良な」ドーラ一家を捉えてもいる。欲望の赴くまま盲目的に行動する彼らは悪だというわけである。
そのような行いを目の当たりにしたパズーとシータは、ラピュタの自然を守り、「略奪よりもっと酷いこと」を防ぐためにムスカ(彼らにとっては軍隊も特務機関も同じ敵なのだろう)をラピュタの王にしてはならないと勧善懲悪的に決意し、滅びの言葉を用いることに思い至る(この場面の台詞は嫌にわざとらしく聞こえる)。
ドーラ一家を助ける途中でシータがムスカに捕まってしまう。あるいはパズーから奪われてしまい、半球体の内部に連れて行かれる。パズーは一家を助けてから、シータを追って半球体へと向かう。
7.3 四幕三場
二幕と同様、ムスカが一時的な主人公になるのが転である。四幕三場においては、将軍をやり込める代わりに無線機を壊すことによってそれを印象づける。シータが主人公と一緒に行動するという原則も保たれている。余談ではあるが、「ムスカが無線機を」という台詞が頭韻を踏んでいて可笑しい。「全部ぶっ壊しただと?」でブが連続する部分と合わせて、演技が台詞の味をよく引き出している。
ラピュタの中枢に近づくにつれ、即ち野望の実現が近づくにつれてムスカの冷静さが失われていく。これは興奮と苛立ちによって描写されるが、巨大な飛行石にたどり着いたり黒い石に刻まれた文字が読めることによって興奮するのはいいとして、苛立ちは全て植物や水や羽虫といった自然環境によることに注意すべきである。
場面が切り替わっていきなり爆発となるが、これはムスカにも秘密の名前があることを知ったシータの衝撃を表している。場面が切り替わっても、何らかの意味で連続しているという手法は何回か使われている。この場面でムスカは政府軍を弄んで王国の復活を祝うわけだが、ここが彼の短い最盛期であって、これ以降は破滅の一途をたどることになる。なお「全世界は再びラピュタの下にひれ伏すことになるだろう。」という台詞が棒読み気味だが、決め台詞として以前から準備してあったのかもしれない。